高田みづえ「青春Ⅱ」

高田みづえシングル・ベスト30
 アンテナサイト「ナツメロ茶店」さんをはじめ、優れたその歌唱力と粒ぞろいの楽曲から、引退後20年経ていまだに高い評価を得ている歌手、高田みづえ
 70年代の歌謡ポップスターたちがこぞって大充実期を迎えていた1977年にデビューした彼女は、「勝手にしやがれ」「季節風」「思秋期」「九月の雨」「秋桜」・・・等など、名曲がひしめき合い百花繚乱の状況を呈していた77年後半のヒットチャートにおいて、他の先輩歌手と肩を並べて「硝子坂」「だけど...」「ビードロ恋細工」といった秀作を次々トップテンに送り込み、見事にチャート上で花を添えていた印象がある。デビュー当時から、良い意味で歌謡アイドル・ポップス歌手の一員として完成をみせていた。しかし、それが仇となってか、翌78年から押し寄せたニューミュージックブーム・歌謡ポップス粛清の波で、他の先輩歌手の多くとともに苦戦を強いられ、1980年「私はピアノ」がヒットするまでの2年以上、トップテンから遠ざかることになる。
 「青春Ⅱ」はそんな高田みづえの最大の低迷期とも言える79年に発表された作品。オリコン最高ランク50位、売上枚数10万枚に満たない地味な成績に終わった一曲だ。原曲は松山千春で、78年の大ヒットシングル「季節の中で」のカップリング。サビと言える盛り上がりもなく、A−B−A’の繰り返しで終わるシンプルかつ短い曲で、発表当時も「千春人気にあやかって起死回生を狙うにしても、みづえちゃん、随分冴えない地味な曲選んだな〜」と感じた記憶がある。
 しかし、今、彼女のベスト盤を改めて聴き直してみて、この曲こそが、高田みづえの復活宣言、あるいは当時の音楽界への挑戦状として意味のある1曲であったような気がしてならない。
 78〜80年頃の音楽界の状況は、ニューミュージック・自作自演歌手がブームの頂点にあり、反動としてそれまで主流だった歌謡曲というシステム・ジャンルが「格好悪いもの」として一段低く見られていた時代。その中で、アイドル的な歌謡曲歌手としてカテゴライズされたがゆえに、デビュー2年目にしてメインストリームから排除されかけていた彼女。あえて当時人気絶頂だった千春の、土着的な要素をたっぷり含んだこの曲をみづえ流にカバーすることで「今、流行りのニューミュージックも、私達の歌う「歌謡曲」と何ら変わりないのよ、わかる?」と暗に主張していたのではないか、と思えるのだ。それほどまでに完璧な「歌謡曲」としての仕上がり。
 それは穿ちすぎとしても、この1曲が、カバー曲「硝子坂」でデビューした歌手、高田みづえとして初心に立ち戻って再びカバーに挑戦するという、復活宣言であったというのは間違いない。そんな「青春Ⅱ」、一聴すると単純な譜割のマイナーフォークでありながら、ブルーノート多用の下降旋律や、ブレスもままならない怒濤のBメロなど、歌うにはちょっとした難曲。同期の榊原郁恵がアイドル歌手としては決め手を見出せないまま低迷し、バラエティー方面で活路を見出していくのを横目に、その並外れた歌唱力を武器にあくまでも「歌」で勝負するのだという強い意志が、この地味ながらもさりげなく歌唱力が要求される選曲に現われている気がする。「自作自演もいいけど、ちゃんとした歌手に歌わせてくれれば、こんなに曲が生き返るのよ、わかる?」そう言いたかったのかどうかは、定かではないけれど。
 その後の彼女は、「潮騒のメロディー」「私はピアノ」と、勝負をかけたカバーで次々とヒットを生んで復活を果たし、80年に引退した山口百恵の「静の部分」を引き継ぐかののように、谷村新司さだまさし村下孝蔵などドメスティックなシンガーソングライターから作品提供を受けつつ、最後の正統派歌謡ポップス歌手ともいうべき孤高の活動を続けていった。本人は本当は最初から最後まで演歌指向だったみたいだけど(T_T)。