桜田淳子「Lady」

hiroc-fontana2005-12-06

 70年代の終わりごろ。歌手としてはライバルの百恵さんにすっかり水をあけられてしまっていた、活動後期の淳子さんがいた。しかし、この時期の彼女のシングル作品を聴き直してみると、「Party is Over」「美しい夏」「夕暮れはラブ・ソング」「神戸で逢えたら」「化粧」「ミスティー「窓」など...意外に佳曲が揃っているのに驚かされる。1曲ごとに作家が交代しており、伊藤薫深町純といった渋い面々も名を連ねる。これらの曲は非常にバラエティーに富んでいて、全盛期の彼女のヒット曲群(まるで金太郎飴のように同じような曲ばかり)とは好対照。まさに、自ら出演作品を選んだうえで「今度はこんな淳子をお見せしましょう」と言っているかのようにも思える。実際のところ、この時期の淳子は、すでに歌手としての役割を終えていて、その歌唱は、歌唱力を云々するより、女優の表現手段の一環として楽しむ方がしっくりくる気がするのだ。(アンチ淳子のリスナーには正直辛いだろうけど。)しかし、色々なタイプの曲が並んでいても決して支離滅裂にはなっておらず、そこには一貫して大人の女性のソフィスティケーションともいうべき上品な香りが漂っているのが特徴で、それこそが、この時期の「桜田淳子」のイメージ戦略であったのかもな、と今になって思う。百恵の引退劇に隠れて、当時は気が付かなかったけれど。
 そんなさなか、1979年11月に発表されたシングルが「Lady」。尾崎亜美のペンによる作品で、ミディアムテンポの正統アイドルポップスという曲調。尾崎亜美といえば、卓越したメロディーセンスで、数々の女性アイドルに曲を提供しては、それらアイドル達のイメージアップにつなげてきた、アイドルの音楽性向上戦略に欠かせない「アイドル向けイイ曲」作りの達人。南沙織「春の予感」をはじめ、松本伊代の「時に愛は」、榊原郁恵「風を見つめて」とかね。(印象的な曲が多い割に「大ヒット」がほとんど無い、というのが作家・尾崎亜美の不思議なところなんだけど...。)この「Lady」もそんな1曲で、オリコン最高位は51位、大ヒットにはならなかったものの、尾崎亜美らしいコンパクトかつ瑞々しいメロディーラインをもった極上ポップス。後期の淳子を語るに外せない名曲だと、俺は思う。しかし。
 ここでの淳子の歌唱は、聴く者に問題を投げかける。まるでジュンコ、納豆を口に含んで歌ってます、みたいな、粘っこ〜い歌い方。「かちかちとぬありゅ〜(カチカチと鳴る)」「やく〜そく〜の〜じかんぬあ〜ぬお〜(約束の時間なの)」など、おぞましいくらいの有様なのである。デビュー間もないアイドルが歌えばきっと、さわやかなラブソングとなるであろうこの曲が、淳子のお陰で何とも濃密な仕上がりに。まるでモリ光子さんがサイズの合わないカツラをかぶって女学生を演じているかのような違和感。
 思うのだが、これこそ「女優」桜田淳子が「皆様のアイドル淳子を演じてみましょう」と、あえてそれまでの彼女の世間的イメージを自らデフォルメして表現し、それに決別宣言しようとして歌った1曲ではないのか、と。尾崎亜美という、女性アイドルの王道を演出することに長けた職人作家の作品は、彼女自身が嫌っていたであろう「アイドル淳子」を客観視し、自ら演じることで「そこ」から開放するための、格好の材料になったのではないだろうか。言わば、敢えてわざとらしく歌うことによる、リスナーたちへのショック療法。もう本来のアイドル淳子は私の中にはいない、あれは幻だったのよ、いう宣言。
 次作「美しい夏」以降はそういった歌唱は聴かれず、むしろ凛とした印象が強くなるだけに、余計に「Lady」での度を越えたネバネバ唱法からは、意図的な何かを感じさせられるのだ。
 なんだか、褒めてるのか貶しているのかわからくなってきたけど。曲の良さ悪さも遥かに凌駕してしまう超個性、桜田淳子さんのこういうところが、40歳を越えてやっと分かってきて、好きになってしまった俺なのである。