アキナの聴き方

 以前の日記にも書いたが(http://d.hatena.ne.jp/hiroc-fontana/20050929)、俺は中森明菜がちょっと苦手。モゴモゴと聴き取れないピアニシモヴォイスから、雄叫び状態のビブラート・ロングトーンまで、その転換が唐突すぎてまるでトルクの重いエンジンのような気がするからだ。中間の、一番聴きたいと思う「おいしい部分の声」をなかなか聴かせてくれない。明菜を聴くとそんなフラストレーションに苛まれることが多いのだ。とにかくボーカルにムラがありすぎて、受け付けないのだ。
 でも、今年出版された「歌謡曲 名曲名盤ガイド1980’s―Hotwax presents」歌謡曲 名曲名盤ガイド1980’s―Hotwax presentsを読んでみると、あまりに中森明菜のアルバムをベタ誉めしているものだから、よし、ちょっとマジメに聴き直してみよう、と思った俺。(実は影響受けやすいのよね。)もしかしたら、明菜が苦手なのはただの「食わず嫌い」に過ぎなかったとしたら、勿体無いし。ということで、早速88年のアルバム『Stock』の再発盤を購入して、じっくり聴いてみることにした。
 明菜を聴いているとき、ふと自分が眉根を寄せて聴いていることに気付いた。聖子では決してありえないことだった。そして何回か聴いて、分かったことがある。それは、明菜を聴くには「明菜を聴く心構え」が必要なのではないか、ということだ。それは、例えば民謡や浪曲などの古典的音楽を聴くのと同じように、大袈裟に言えば、送り手と受け手が共通の様式を理解する前提があって初めて楽しめる世界なのではないか、ということだ。聴き様によっては全部が同じに聴こえてしまい、とてつもなくつまらない世界にもなるし、クセのある表現方式に気を取られてしまえば、そこから先へ入り込むことさえ拒まれてしまう世界。
 結局、明菜は、聞き流すことを許さないのだと思う。それは、耳に引っかかるフレの大きいボーカルがそうさせるのかもしれないし、持ち前の低音に「凄み」が加わった全盛期の声が魔女のような一種のカリスマ性を備えていたから、そう感じさせるのかもしれない。真剣に聴かないヤツは、相手にしないよ、みたいな、ね。
 いずれにせよ、たしかにハマる。その気になるとハマってしまう何かが明菜にはある。初心者である俺にはそれが何かはわからないのだけど。
 『Stock』では決してインパクト先行ではない、お得意の歌謡ロックが並んでいるのだが、80年代特有の分厚いアレンジと渾然一体となった明菜のボーカルが、聴く回数を重ねるたびに少しずつ浮かび上がってくるのを感じる。最初は、何を歌っているのか聴き取りにくいし、ここはもっと伸びやかに声を張ればいいのに、ここはこんなに声を張り上げなくてもいいのに、などと、音のまとめ方のまずさが気になる。しかし、彼女の魅力は音の終わり方ではなく、歌い出しにこそあるのだと気付く。例えば「ア」の音を「ア」でなく「ウア」と唸る、その声、その発音、その「魔女っぷり」に次第にゾクゾクさせられていくのだ。
 そう、明菜は、魔女。あまり深入りしすぎない方がいいのかもしれない。

Stock(紙ジャケット仕様)

Stock(紙ジャケット仕様)