1985年、夜へ向かう明菜 その1〜「SAND BAIGE/椿姫ジュリアーナ」

 クソ暑さが続く今年の夏だけど、八月も終わりに近づいて、ここのところ朝夕は心なしか秋めいた空気が感じられるようになってきた気もする。特に、我が家からほど近い土手の上から眺める夕焼けはここ最近、ホントに綺麗で、眺めているだけでも「あ〜もう夏も終わりね(今年の夏も、何もしなかったわ・・・)」みたいな感傷的な気分にさせられてしまうのよね。
 前置きが長くなったけれど、先日電車の中からそんな夕焼けを眺めて感傷に浸っていたときに丁度、ヘッドホンステレオから流れてきたのがこの曲だったのね。
 「SAND BEIGE〜砂漠へ中森明菜
(作詞:許瑛子、作曲:都志見隆、編曲:井上鑑、1985.6.19発売)
 冒頭から「♪サハラの夕日を あなたに見せたい〜」だものね。アラビアンな楽器を使ったイントロからエキゾチックな雰囲気満載のこの曲だけど、この曲をBGMにして眺めた下町の土手は、いつの間に遙かサハラ砂漠の風景のように見えてきて・・・なんてことは全然なかったけど!
 大ヒット「ミ・アモーレ」のあとにリリースされたこの「SAND BEIGE」、その後シングル「TANGO NOIR」「AL-Mauj」そしてアルバム『Resonancia』と展開していくアキナの必殺技・エキゾチック路線への分水嶺となった曲であると同時に、抑制を効かせて切ないニュアンスだけを前面に押し出すようなアキナの歌い方にしても、一見地味ながら粘り腰でクセの強いメロディー展開にしても、アキナがアイドルからアーティストに成長する上でのひとつのエポックとなった曲であることは間違いないように思うのね。
 ♪東へ行くのよ唇かみしめ アナ アーウィズ アローホ ナイル 
 八分音符が連なった粘っこいメロディーを歌うアキナの声に漂う何とも言いがたい寂寥感。歌唱力や表現力、といったところとは別な場所で、何かを訴えかけてくる声、これは魅力的だ。そんなアキナの声と意味もわからぬアラビア語(歌詞は「〜へ行きたい」という意味らしい)にイマジネーションを掻き立てられながら、ナイル川ならぬ下町のドブ川を眺める俺。。
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 そして、俺のヘッドフォンから続いて流れ出すのは、この曲のカップリング「椿姫ジュリアーナ」だ(作詞:松本一起、作曲:佐藤隆)。こちらも名曲。作曲は「桃色吐息」でも有名な佐藤隆。まるで熱帯夜特有の行き場ない熱気のような、独特の浮遊感と湿度を漂わせた彼独特のクセの強いメロディーに乗せて、ここでのアキナはウィスパーでもなく吼えるでもなく、終始すすり泣くような、鼻にかかったか細い声でこの歌の世界を再現する。まだドスが効く前の、この時代のアキナの切ないハナ声は彼女の全キャリアの中でも突出して魅力的だと思う。
 舞台は異国の都会の片隅。主人公は踊り子。ギター、ピエロ、サーカスやテントといったキイワードで彩られながら、次第にその世界はフィクションと現実の狭間を彷徨い始める。
 舞台がはけて、夜には独り、束ねた髪を解いて星を眺める踊り子、彼女の独白。
♪私だけの私 求めながら 素顔になっても 愛も無い
 これが当時のアキナのイメージにぴたりとはまる。そして、最後のフレーズが決まってる。

 ジュリアーナ 素敵な脚が見たい
 耳に焼きついた 男の声
 ジュリアーナ 夢中に踊らされる
 生きてゆくことに シナリオない

 つまり、全てが白紙。この今を懸命に生きるのだ、という強い決心。そして、その裏に漂う恐ろしいくらいの虚無感。。。ここが、すごい。まるでその後のアキナさえ暗示しているよう。
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 1985年のアキナはそれまでのアキナとは「何か」が違う。もはやセイコの対抗軸ではなく、ツッパリアイドルでもなく、同じ夕日を歌ったとしても、アイドルとして口先だけで歌っていた「トワイライト〜黄昏便り」とは、表現する世界の深みが全く違う。
 1985年の彼女は、本当の夕日を見始めていたような気がするのだ。それは、薄っぺらな表現力では語りつくせない色、匂い、感覚。そして彼女はしばしそんな黄昏に留まりながら、より深いもうひとつの世界、「夜」を表現する歌手へと深化を遂げようとしていたような気がするのだ。1985年のアキナ。つづく。